長等小学校 同窓会

2017 年 04 月 28 日号 No415

来週のこの原稿を書いているときには71歳を迎える。今まで自分が様々な営みを紡んでこられた大本は10歳まで過ごした、滋賀の大津だと思っている。

その大津から60年の時を超えて同窓会の開催を告げる電話があった。何年か前に自分の存在を一人の友人が突き止めていた。

10数年前「夕刊フジ」に写真付きの囲み記事に載ったフローレ 21 の記事を東京で仕事していて気づいてくれた。H君は現在小淵沢で悠悠自適の生活を楽しんでいる。

その情報をもとに大津で隣の家に住んでいたTちゃんが電話で同窓会が開催される事をくれ知らせてくれた。

同窓会は40人も出席、乾杯のあいさつに私を指名してくれた。やんちゃ坊主の私は、夏は琵琶湖や疏水で泳ぎ、広い広い三井寺の山を探検、野球のチームをつくり試合もした。

その遊びの中で、きっとリーダーシップのようなものが芽生えたのだろう。泳げるようになると泳ぎの苦手な子の後ろから泳いだり、山登りでは遅い子がいるとスピードを調整したりした。

当日僕の前に座ったD君には柔道の小学生の県大会の準決勝で見事に「体落とし」で投げつけられ敗れた。体も大きく腕力もあった僕が生まれて初めて悔しい思いをした。「必ずD君を投げつける」そんな思いで寒稽古には皆勤したが雪辱の機会はやってこなかった。

D君も僕に会いたいがために京都から来てくれた。脊髄の癌を患い余命2年を宣告され、4年を生きてきた。定年まで毎日新聞で勤め、癌を宣告されてから絵を画描きだした。

D君は私の真裏に住んでいて裏のイチジクの木につかまり塀を乗り越え遊びに行った。D君の父はいつもキャンパスに向かい筆を動かし、あるとき僕にこう語った。「潔ちゃん、僕が書きたい絵はこんな絵ではない、こんな絵しか売れないから描いているんだ」と湖や山や草原の景色の絵を描いていた。小さいながらも生きていくことのむずかしさを感じたのだと思う。D君は来月、京都毎日新聞の主催で個展を開くれるそうだ。

僕が出席すると知ったH君は60年前の僕の彼へ出したハガキを持参してくれた。そのハガキは東京へ出た初めてのお正月の年賀状だった。オートバイに手をかけている自分を描いた絵とお正月の挨拶を書いているだけのハガキを、彼が60年、しかもきれいに保存して見せてくれ感激した。隣のTちゃんは小学校低学年時のツーショット写真を引き延ばしてプレゼントしてくれた。二人が満遍の笑みを浮かべ映っている。私の兄が映したものだった。

貧しい生活だったが、貧しさを感じなかったのは、それをも勝る自分を取り巻く環境があったのだと思う。琵琶湖の美しさ、三井寺の奥深い自然、幾人もの遊び友達と同級生、当時の先生は皆他界しているが何度も頬に平手で殴られた先生も含め、みんな素晴らしい先生だった。そして何よりも大津と言う風土が自分の生きる素地を作ってくれたものだと思っている。

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